2010.05.28

ニュートラルに受け入れさえすればそれでいい

twitterを始めて3日経過。友人のフォロアーが増殖中。みんなやっているのんだなと思った。自身、有益ツイートをしているのかと考えると甚だ疑問の域を脱していない。しかし、類は友を呼ぶとは言うが、友人がつぶやく中には「おっ!」と思う情報がちらちらある。その中で、「待ってました」というつぶやきに言葉のデザイン2010というもののUSTリンクがあって、すぐさまクリックし、そのライブ中継に釘付けとなる。そして、リアルタイムにtwitterでのつぶやきがあり、そこからまた情報が派生していく。凄すぎる。
USTで自分の都合の良い時間に情報を発信し、情報を収集できるというのは、これまでメインをはっていたテレビというメディアが自身の情報を操作できないことを意味しているように思えるし、テレビの力が小さくなっていくことを如実に物語っているように思える。ニュースはドメスティックな、制限されすぎた情報を発信していてもその真偽が最初から試されるし、発信された情報をコメンテーターと言われる人たちがあーだこーだと言っている時間が無駄な時間に思えて仕方がなく思えてしまう。ニュートラルな情報を発信し、受け手側がその発信された情報をニュートラルに受け入れさえすればそれでいいという時代が、もうすぐそこまで来ているということかもしれない。というか、もう始まっているんだろうな。

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2010.05.25

twitter

3年ほど前に誘われてアカウントだけ作ったtwitterで今日初めてつぶやいてみた。あのときも、何をするものなのかが全然わからなかったが、3年たってつぶやき始めても未だわからず。ただ、続けることで歯車がカチッとはまり、何かが回り始めるような気がしている。人とのつながりも、お金の回りも、仕事の回りも、たぶん世のなかの全てはある瞬間から自分の動力以上の動き方をする瞬間があるように思っている。

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2010.05.08

2010年4月23日

独立のため退職。また新しい扉が開いたようだ。

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2010.02.07

何かを一緒に共有できることが

あるスケート選手のドキュメンタリー番組を見て、ふと思った。なぜスポーツ選手にはコーチという存在がいるのだろう、と。コーチという存在を否定しているわけではない。どちらかというとうらやましい。このコーチという存在は、教えている人が勝ったら互いに喜ぶだろう。でも、勝てなかったら、「よくわからなかったから」とか「方針が見えてなかったから」とか、そういうことを言って、負けたことを責めることもないだろう。それだけ、ある目標に向かって、一緒に戦っているのだと思う。
でも、一般的な企業にこの概念をあてはめたとき、たとえコーチという存在の立場である場合でも、人は誰かのせいにして責任逃れをすることが大半のような気がする。そう考えると悲しいな。勝っても負けても、それ自体を認めて、何かを一緒に共有できることが仕事の醍醐味のように思うのだけれど。

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2010.02.06

それを上回る情報を与えなければならないのかもしれない

お仕事関係の方からチケットをいただき、テーブルウェアショーに行ってきた。こんなご時世だからさぞかし人はいないのだろうと思いきや、びっくりするほどの人、人、人の数。昼時にはベンチに座ってお弁当を頬張る人のこれまた多いこと。わざわざお弁当を食べるだけのために足を運んだとは想像に難しい。ということは、お昼前に到着して、見て、お弁当を食べた後、再びうろうろするのであろうと察する。そしてほとんどが女性であった。
盗み聞きをするわけではなかったけれど、耳に入ってくる彼女達の会話を聞いていると、気にいったものを目の前にすると、だいたいがかわいいという内容の言葉を発していたように思う。自らの意志で来ているくらいだから、やはり皆、「欲しい」という心理が働いているのだと思う。
しかし、これほどまでにテーブルウェアを扱うメーカーが存在していたというのは少々驚くけれど、果たして、このような機会を得ていなければ、どこで今回出展している数々のメーカーの製品に出会えるのだろう。アウトレットモールでも、全てが成功しているわけでもなさそうだし、そう考えると、人は、もともと知っているとか、好きとか、そういう、自分の中で信頼できる次情報を基準にしてモノの購入に至っているような気がする。そう考えると、数ある中から強烈に売りたいという意志を小売業の誰かに見いだされなければ、これとあれの違いは何で、だからこれはこんな風にいいんです、というようなことを理解させてくれる場所の存在はとても重要に思える。そしてそれは場所ではなく、人でもいいのだと思える。人の心を動かすには、訴えかけている人の中にすでに存在している価値観を基準にしてそれを上回る情報を与えなければならないのかもしれない。

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«自分ひとりの世界ではわからない。